つくもフォリオ - 2/4

〜桜庭薫編〜

 ——春も少し過ぎ、桜はとうに散って木々も緑に染まってきた頃。
 事務所に顔を出した一希の顔色は真っ青だった。
「顔色が優れないようだが」
 たまたま居合わせた桜庭薫が救護にあたり、一希を事務所のソファに寝かせることにした。
「……人混みに酔っただけなので、少し休めば大丈夫です」
 一希にとっては珍しいことではないのだが、やはり人混みと人酔いには慣れない。
「人酔いは正式には『血管迷走神経反射』という症状だ。もし頻繁に起こるのなら、こまめに休憩することを勧める。たとえ症状が出ていなくても、環境を変えることで予防にもなる」
「……」
 一希から返事がない。というより、そんな余裕はなさそうだった。
「あと、季節の変わり目には体調を崩しやすい。特にこの時期は急激に気温が上がることもある。仕事に支障をきたさないよう体調管理を徹底するように」
「……ありがとうございます。気を付けます」

 *

 ソファで休んだことにより、一希の顔色も少し落ち着いているようだった。
 薫もそれを見計らってか、話を切り出した。
「話は変わるが、君の父親はベストセラー作家だったな」
「……そう、ですが」
 まさか、父の話がこんなところで出てくるとは思わず、返答に詰まってしまった。確かに、事務所や現場などで本を読んでいる場面はよく見かけるが、それは医学書や学術論文といった専門的なものであり、父や自分が得意とする文学の類は関係ないと思っていた。もしかして、『父が書いた』本も読んだことがあるのだろうか。
「僕も多くを読んだわけではないが……君の感性は父親の文章によく似ている、と感じることがある」
 薫の『父親の文章に似ている』という言葉にぎくりとした。それは親子だからという意味なのか、それとも『自分が父として書いたもの』ということに気づいたのだろうか。
「……それは、どういう意味ですか」
 動揺を悟られないように、何とか声を絞り出した。また薫に心配をかけるようになってはいけない。
「君が自分を変えたいという理由は僕には分からないが、君にも人の心を動かす才能は十分にある……と、僕は思う」
「え……」
 思いもよらない返答に一希は目を丸くした。もしかして、先程の注意を言い過ぎたと思って気を遣ってくれているのだろうか。
「……とにかく、アイドルは人が多い場所での仕事が多い。人酔いの対処もきちんとしておくようにな」
 薫の表情を確認する前にそっぽを向かれてしまった。

 分かりにくいようで分かりやすい人だな、と一希は感じた。